日刀保たたらに火が入るのは、寒さが最も厳しくなる毎年1月中旬から。
3昼夜通しの操業は炎の格闘でありながら、従事する人々を支えるのは誠意と真心だと村下はいいます。火をよみ、風をよみ、砂鉄の煮える音をよむ。命なきものと人間の対話の果てに「鉧」が誕生し、すべては金屋子さんのおかげと手を合わせます。
誠実さあってこその美しい鋼。
日刀保たたらは技術の継承とともにものづくりの精神を現代に伝えています。
日刀保たたらに火が入るのは、寒さが最も厳しくなる毎年1月中旬から。
3昼夜通しの操業は炎の格闘でありながら、従事する人々を支えるのは誠意と真心だと村下はいいます。火をよみ、風をよみ、砂鉄の煮える音をよむ。命なきものと人間の対話の果てに「鉧」が誕生し、すべては金屋子さんのおかげと手を合わせます。
誠実さあってこその美しい鋼。
日刀保たたらは技術の継承とともにものづくりの精神を現代に伝えています。
日本刀の材料となる玉鋼を、いにしえより伝わる伝統技法で製造する「日刀保たたら」は、豊かな森林を育む中国山地の山間、島根県奥出雲町大呂にあります。
日立金属株式会社の技術支援のもと、日本刀の材料となる玉鋼の製造とそれを作り出す伝統技術の伝承、技術者の養成を目的に公益財団法人日本美術刀保存協会が運営しています。
たたら吹き操業は毎年、湿気の少ない1月中旬から2月初旬にかけて3代(3昼夜の操業1回分を1代と呼ぶ)行われています。炉床や炉作りから始まって3昼夜。不眠不休の操業を経て、1代につき約2.5トンの鉧が製造され、選鉱された玉鋼が全国の刀匠約200人に提供されています。
その他、伝統的な建築物など文化財の修復に使われる和鉄や鎹の材料も、たたらの技法でなければ作り出せないことから、東大寺の仁王像などさまざまな文化財の修理に協力してきました。
一方、これまでに多くの専門家や研究者がこの技法を現代の製鉄法に再現しようと試みてきましたが、失敗に終わっています。
日刀保たたらの技師長である木原明村下は、「炉の中は刻々と微妙に変化する上に炉壁も侵食され、不定型でものをつくる難しさがあります。村下は五感を駆使して炎の色、風、砂鉄が溶ける音などを読み解きながら総合的に判断して炉の変化に対応しているのです。火を扱う感性と体力、精神力、根性を兼ね備えた先人達が、現場で知恵と経験によって進歩させた製錬技術は、最新の科学でも及びません」と伝統技法への誇りをにじませます。
古よりたたら操業の成功の秘訣を「一釜、二土、三村下」あるいは「一土、二風、三村下」などと言い表してきました。この言葉は今も健在で、釜作りとそれに使用する土の選定が慎重に行われています。
土は構造材であるだけでなく、炉壁の侵食によって砂鉄と融合して不純物を排出し、鉧を育てるという重要な働きをします。そのため、村下自ら山に調査に出向き、土の感触を確かめながら厳選します。さらに配合にも厳しい目を注ぎ、徹底して試験や調整を繰り返すといいます。
「たたら吹き操業は繊細で厳しい仕事。それ故に準備過程をおろそかにすると結果に反映し、良い鋼を作り出せない」ということから、前述した土の他にも、砂鉄、炭焼きなど材料の入手から妥協は許されません。
砂鉄は日刀保たたら近くにある羽内谷鉱山の隣接地で磁力によって手作業で採取し、炭は周囲の山々から調達した雑木を村下養成員と呼ばれる後継者が敷地内にある炭窯で焼いて蓄えています。すべてを掌握する村下の技量とともに、日々、繰り返される丁寧な作業の延長線上に玉鋼は生み出されています。
日刀保たたらの村下にはもう1つ、伝統技術の継承と後継者の養成という大きな使命があります。木原村下に渡部勝彦村下を加えた2人の村下は講師役も兼ね、村下養成員と呼ばれる後継者を育成しています。
現在、村下養成員は全国の刀匠や日立金属株式会社の社員から選ばれた10人(平成28年現在)。その内、経験を重ねた養成員を村下代行とし、2人が代行役として現場の統括役を務めています。
たたらの仕事は幅広く、前述のたたら吹き操業や材料の調達の他、木製道具の製作や整備、鉧の破砕作業や選別など、多種多様な作業が年間を通じて行われ、さまざまな技能や知識を身に付けなければなりません。
養成員は技量や経験に合わせ、上級、中級、初級と区分されていますが、その区分や個々の方向性に沿って仕事に従事しながら、技能を磨き、知識を深めています。
木原村下は「ここ最近、村下代行の2人は炉内の複雑な変化をよみきり、長時間の操業体験にも対応できるようになってきた」と期待をふくらませる一方、自らは「さらに養成に力を入れ、皆が一丸となって良い鋼を吹けるような体制を整えていかなければ」と、気を引き締めています。
木原村下自身も村下養成員として研さんを積み、昭和62年(1987)、国の選定保存技術保持者に認定されるとともに村下に就任した、いわば日刀保たたらにおける村下後継者の第1号にあたります。
それまでは株式会社日立製作所(現日立金属株式会社)安来工場の社員として、特殊鋼の原料となる砂鉄製錬や、角型溶鉱炉での木炭銑鉄の製造に携わっていました。そのキャリアを買われ、42歳で日刀保たたらの復元操業のメンバーに抜擢され、安部由蔵・久村勧治両村下(ともに国の選定保存技術保持者)のもとでたたら製鉄の道に入り、久村氏が亡くなった後は安部氏に師事しました。
安部氏は20歳で、奥出雲地方を拠点とした有力鉄師、卜蔵家の村下となり、日刀保たたらの前身となる靖国たたらでも村下を務めた名匠でした。
「日刀保たたらの復活当時、安倍さんはすでに75歳。この仕事は過酷な上、素人同然の私たちを養成しながら、技術を復活させるという道のりは並大抵ではなかったはず。しかし3昼夜の操業では果敢に先頭に立たれ、どんな時でも私達の質問に丁寧に答えてくださり、一日でも早く後継者を育てたいというお気持ちが伝わってきました」と木原村下は師を偲びます。
そして後年、後継者を育てる立場となったとき、自分の使命は師匠の教えを忠実に伝えることと考え、技術指導の傍ら、師匠から学んだ3つの心得「仕事を好きになる」「真心をこめて良い仕事をし、親方に可愛がってもらえる人となる」「熱意を持って学び、考え、自らで経験する」を軸に心の在り方を唱え、「誰もが3つの心得をもとに切磋琢磨し、たたらの奥義や先人達の生き様への関心や理解を広げていってくれるような雰囲気づくりを心掛けている」といいます。
さらに国内外から協力要請が舞い込み、たたら遺跡での製鉄方法の復元実験、教育現場での実験指導、企業の体験研修での指導や技術協力、彫像作家や映画制作といった芸術分野への協力など、多方面でたたらの魅力を発信し、同行する養成員にとっては第三者の目を通してたたらの技術の奥深さや価値を再認識する機会ともなっています。
かつて一子相伝で継承され、日本の発展を下支えしてきた「技術」と「たたらの精神」は、志高き村下から次世代へと着実に受け継がれているのです。