出雲国風土記いずものくにふどき』とは

  •  律令制のもと、それぞれの国の歴史や事物を記し天皇に献上した地誌を、「風土記ふどき」といいます。

     和銅6(713)年5月、元明げんめい天皇は国ごとの郡郷の地名伝承、山川原野、草木禽獣、産物、地味、古老の伝承、交通などをまとめた書籍を編纂するよう命じました。出雲国いずものくににおいては20年をかけて調査、執筆が行われ、天平5(733)年、今からおよそ1300年前に出雲国風土記いずものくにふどきが完成。今に伝わる常陸ひたち播磨はりま豊後ぶんご肥前ひぜん、出雲の各国の5冊の風土記の中でも、出雲国風土記は最も完本に近いといわれています。

     出雲国風土記では、最初に出雲国の全体像が書かれ、続いて意宇おう・島根・秋鹿あいか楯縫たてぬい・出雲・神門かんど飯石いいし仁多にた・大原のこおりごとにその土地の地名伝承、社寺、山川、動植物、交通、軍事施設などが記されています。また、『国引き神話』など、古事記や日本書紀には書かれていない出雲神話も記載されています。


  • 出雲国風土記(733年)写本[和鋼博物館 蔵]

出雲国風土記に見る「まがね

 出雲国風土記には、飯石郡の波多小川はたのおがわ(神戸川水系)および飯石小川(斐伊ひい川水系)を記した部分に、鉄に関する記述が認められます。

「波多小川。源は郡家の西南二十四里なる志許斐しこい山より出で、北に流れて須佐すさ川に入る。鐵あり。」

「飯石川。源は郡家の正東十二里なる佐久禮さくれ山より出で、北に流れて三刀屋みとや川に入る。鐵あり。」

 というものです。

 また、仁多郡条には、横田郷、三処郷みところのさと布施郷ふせのさと、および三澤郷みざわのさとの4つの郷を指して、

「以上の諸々の郷より出す所の鐵、堅くして、もっと雑具くさぐさのものを造るにふ」

 との記述があります。

 「鐵」とは鉄を指します。これらの記述から、当時、出雲国には川から採取した砂鉄から鉄を作り、鉄器に加工する技術が存在し、田畑の耕作や収穫に使われる農具や日用具などが生産されていたことがわかります。

 以上が、出雲国風土記に書かれた鉄に関する記述のすべてなのです。

 「出雲は古代から鉄王国というイメージが強いですから、出雲国風土記にも鉄に関する記述がふんだんに出てくるとお思いでしょうが、実はとても少ないのです」と、「出雲学」の藤岡ふじおか大拙だいせつ氏も語ります。

 なお、斐伊川に赤川が流れ込む加茂かも地域にある神原かんばら神社古墳は、鏡が出土したことで有名な5世紀の古墳ですが、ここからは針、ヤス、矢じりなど大量の鉄器が出土し、すでに鉄生産が行われていたことをうかがわせます。しかし、残念ながら出雲国風土記にこれに関する記述はありません。

「スサノオノミコト=韓鍛冶からかぬち」説

  •  一方、出雲国風土記には神須佐能袁命かむすさのおのみことなどとして登場するスサノオですが、ほぼ同時期に編纂された古事記・日本書紀に比べてその登場回数はわずかです。有名なヤマタノオロチ退治のエピソードも、出雲国風土記にはありません。しかしながら、安来や須佐すさ佐世させなどの郷をスサノオが命名した旨の記述や、記紀においてはスサノオによってヤマタノオロチの生贄となることを免れたクシナダヒメが飯石郡の項には久志伊奈太美等与麻奴良比売命くしいなだみとよまぬらひめのみこととして登場するなど、出雲国風土記においてもスサノオと出雲国との所縁をうかがうことができます。


  • 船通山[島根県奥出雲町]

 ところで、スサノオによるヤマタノオロチ退治を、斐伊川をオロチに見立てた鉄産地の平定譚であるとする説があります。この説では、スサノオが倒したオロチの尾から草薙剣くさなぎのつるぎ天叢雲剣あめのむらくものつるぎ)を発見することは、斐伊川流域で良質の鉄が得られたことを意味しているとされます。もしそうだとすれば、スサノオは、当時異国より渡来し先進の製鉄技術をもたらした韓鍛治からかぬちであると考えることもできます。

 「スサノオが古代に製鉄や鍛冶技術をもたらした韓鍛治だったという説は面白いと思います」とは、前出の藤岡氏。「あくまで想像ですが、炎を操って優れた鉄を作り出す韓鍛治は、渡来人だったこともあり、当時の人々の目には極めて異質な存在に映ったことでしょう。韓鍛治はときに畏怖あるいは一種の恐怖をもって扱われたと想像されますが、これが記紀などにおいて神(=スサノオ)の姿に描かれたとしても不自然ではありません」と、藤岡氏は語っています。

解明を待つ出雲の鉄生産の始まり

 出雲国風土記が編まれた今からおよそ1300年前の出雲地方は、連なる山々に緑の木々が茂り、川に清流が流れ、貴重な砂鉄が採れる土地でした。そこで鉄を沸かし、暮らしの道具を作っていた人々の日常が思い描かれます。しかし、現在私達が目にしている出雲地方の風景は、後年の鉄穴流かんなながしの影響が色濃く、神代の出雲国の様子は古代出雲人こだいいずもびとの遺したわずかな痕跡から想像する他はないのです。