山内さんない」の仕事と暮らし

 たたら製鉄の中心施設である高殿たかどのを中心として、製鉄に当たった人々の集落が形成されました。これを「「山内さんない)」と呼びます。
山内の立地は、たたら操業に不可欠である膨大な量の木炭や原材料の砂鉄、生活用水の調達確保が可能であるとともに、生産された鉄・鋼の搬出、食糧の搬入が便利であることが条件でした。

 山内に住む人々は、製鉄のみに従事することから独特の社会が形成されました。

山内と村人の交流

  •  山内の人口は、たたら製鉄の最盛期と衰退期で異なりますが、おおよそ小さな村(現在の自治会:100~200人)程度であったといわれています。
    山内の住居は10~13坪(1坪=1間四方、約3.3m²)ほどの広さで、ここに職人とその家族が同居しました。

     一方、近隣の農村の村人たちは野菜や柿などの販売に山内を訪れた他、築炉のための粘土の運搬や砂鉄採取、小炭の供給といったたたらに関連する作業にも一部従事するなど、山内と村人との間には交流がありました。

  • 昔の面影が残る菅谷たたら山内

山内での決めごと「締合しまりあい

  •  山内では、「締合しまりあい)」と呼ばれる規則によって細やかな決めごとが定められていました。その一例は次のようなものです。

    • 火の元はかたく用心すること。くわえ煙草、手火は山内ではいけない。若し心違いをすればきっと取りただ)す。
    • 2日間続けてたたらの仕事を休めば、扶持ふち)米を減らす。
    • 博奕ばくえき)はかたく禁止する。たとえ子供であっても、一文賭のなんこ(一文銭などを手に握って数を当てさせる博奕)でもしたものは、本人は勿論、宿主、隣家に至るまで其筋そのすじ)へ届け出て取り糺す。
    • 商人を宿泊させてはならぬ。親類の者が訪ねてきた時は、山配やまはい)(山内の支配人)へ届けた後泊まらせること。
    • 病人があるときは、お互いに世話をし合うこと。医師の送迎は、山内の者順番ですること。
    • 人との輪を大切にし、喧嘩口論などは世間に対しても、家内でもしてはならない。
    • ドンブリ(風呂)に入るのは、たたら山内の者より先に(山方が)入ってはならない。

     このような申し合わせ事項を決めて山内の風紀を保ち、共同体としての結束を維持していました。
     また、賃金についても以下のように定められていました。

    • 賃金はすべて日給。
    • 米は毎日1人平均1升5合を給し、残余は職種によって現金で支払う。
  • 昔の山内の暮らしを物語る資料[山内生活伝承館 所蔵]

    菅谷山内の古老の昔語りをもとに描かれた平野勲画伯の絵画

山子やまこ/やまごによる炭焼き

  •  たたらは、1回の操業で4千貫(約15t)ともいわれる大量の木炭を消費しましたが、その木炭は、炭窯で焼かれました。
     山内で木炭製造を担っていたのが、「山子やまこ/やまご」と呼ばれた人たちです。

     まず、山すそに粘土を練って楕円形の炭窯を築きます(窯打ち)。石を組み合わせ粘土で固めた窯壁は厚さ3尺(約1m)、その窯の上には笹や雑木を使って素屋をかけます。

     この窯打ちは約半月をかけて行われました。窯の大きさにもよりますが、一度に5百貫(約1.8t)の炭を焼ける窯を築くには約40人役が必要といわれます。
     また、この規模の炭窯に必要な炭材を用意するには約14人役が必要とされました。伐採した原木を5尺(約150cm)程度の長さに切り窯場まで運ぶのも、山子の仕事でした。
     1つの高殿を稼働させるには、この規模の炭窯が約20基必要でした。

  • 昭和に行われた復元創業時の記録
  • 炭窯づくりと炭焼きの様子(復元操業時)

村下むらげ――たたらの成否を握る技術責任者

 村下むらげは、たたら製鉄を取り仕切る技術責任者です。

 「一釜、二土、三村下」あるいは「一土、二風、三村下」という言い伝えがあります。いずれにせよ、製鉄炉に用いる釜土(粘土)や、ふいごで炉に送り込む風の具合などが、村下の腕前よりも優先するほど重要視されていたことを示しています。しかしながら、よい材料を選び、土や風を生かせるかどうかは、やはり村下の力量にかかっていました。
 たたらの作業は、下灰したはい、築炉、3昼夜の操業、けら出しの順で行われますが、この一連の工程は村下の指揮の下に行なわれます。炉の設置場所で薪を焚いて「しない」と呼ぶ長い棒で叩きしめ炉床とする「下灰」の後、元釜・中釜・上釜の順に炉が築かれます。特に釜(製鉄炉)に使用する釜土(粘土)の質はたたら操業の成否に大きく影響を与えることから、その選定を行う村下の役割は重要でした。

 そして、たたら吹きは、炉の両側に設置されている送風管から炉内に風を送り込み続ける、火入れから送風停止までの3昼夜にわたる連続作業で、村下が最も神経を使うところです。この間、11人の操業者が村下の指揮の下、砂鉄・木炭の装入、不純物である鉄滓てっさいの除去といった作業に従事します。

  • 現代の村下 木原きはらあきら
  • 村下の指揮のもと長きにわたる操業を行う

 炉の中の砂鉄は、木炭から発生する一酸化炭素によって還元されて、鉄となります。村下は、炉を常に監視しながら、炉に開けられた40本の「ホド穴」の状況変化、炉から燃え上がる炎の勢いや色合い、砂鉄を装入した際の音などを通して直接見ることのできない炉内の状況を判断し、炉内に風や炎をうまくいきわたらせることに力を注ぎます。鉧は炉の中で常に形を変えつつ成長するため、鞴の吹き方、砂鉄や木炭を装入する位置と量は、常に微妙に調整しながら操業しなければなりません。現在の村下である木原きはらあきら氏はこのことを「火の道」と表現しましたが、今も昔も「火の道」は長年の経験と勘を培った村下だけが見ることのできるものだったのです。

    • 「ホド穴」から状態を読み取る
    • 砂鉄の操入
  • 窯出し:猛烈な熱が村下と操業者を襲う

見えざる力への畏敬の念

  •  材料の選定から築炉、そして3昼夜にわたる不眠不休の操業は、すべて村下の指揮下で行われます。たたらの成否について、村下はその責任を一身に負っていたのです。

     操業不調の際、山内に鎮座する「金屋子かなやごさん」の祠に裸足で参拝する村下の姿が見られたといいます。
     「金屋子」とは、鉄をつかさどる神です。金屋子神は年頃の女性に嫉妬する女神だという伝えもあったことから、たたらは女人禁制とされ、操業時の食事を運ぶのは幼女か老女に限るなど、各地にさまざまな禁忌が伝わっています。
     現存する「菅谷すがやたたら」には金屋子神が化粧の際に姿を映すといわれる池もあり、たたら操業に携る人たちが常に見えざる力に対する畏敬の念を捧げてきたことを表しています。

     こうした金屋子信仰からは、結局のところたたら製鉄が常に自然の不確実性をはらんだものであり、いかに技を究めた村下をもってしてもこれを免れ得なかったことがうかがえます。