日本列島においての人々と鉄との出会いは、弥生時代中期ごろと考えられています。弥生時代中期後半には、鉄素材を輸入に頼りながらも、国内で原始的な鉄器の生産が開始されました。
「たたら製鉄」の進歩
『出雲国風土記』に登場――鉄の生産で広がる集落
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『出雲国風土記』には、飯石郡の条に
波多小川。鉄あり。
、仁多郡の条には以上の諸郷より出す所の鉄、堅くして、もっとも雑具造るに堪ふ
とあります。「鉄あり」とは川から砂鉄を採ったこと、「諸郷より出す所の鉄」とは各郷で鉄生産が行われていたことを示しています。平安時代の『政事要略』の記載によると、地子雑物(地代)として鉄や鍬が定められていたのは出雲、伯耆、備後、備中であることから、これらの地域が古代における鉄の産地として知られていたと考えられます。
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古代のたたら――箱形炉・砂鉄製錬のはじまり
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古代のたたら製鉄は、6世紀以降は広く全国的に分布します。炉の形は、関東では竪形炉が多いのに対し、中国地方では箱形炉が広島、岡山県で多く確認されています。なお、島根県内では確認例は少なく、松江市玉湯町の玉ノ宮遺跡、邑南町今佐屋山遺跡、雲南市掛合町羽森遺跡などで認められる程度です。
中世のたたら――製鉄炉の大型化
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中世のたたらでは、製鉄炉が大型化し、炉の防湿・保温のため地下構造も大きくなります。出雲では大きな溝状の掘込みの内部に木炭を敷き詰めており、安芸や石見ではその両側に溝状遺構を設けて、後の本床・小舟に繋がるような構造をもったものが見られます。
中世は、各地に多くの荘園が出現・拡大した時代ですが、中国地方では鉄をその年貢とすることが多かったとされることから、鉄生産の伸びがうかがえます。
中世末から近世たたら
――鉄穴流しによる砂鉄の安定供給と天秤鞴がもたらした生産拡大
中世末になると、山を崩しての鉄穴流しによる砂鉄採取も行われ、それらは次の高殿たたらによる企業的な量産への下地となっていきます。そして、17世紀末の元禄年間には、たたら製鉄の画期が訪れます。それは天秤鞴の発明です。
大規模な操業には送風量の増強が不可欠であり、天秤鞴は瞬く間に普及、たたら製鉄における鉄の生産量・質の向上に大きく寄与することとなりました。
近世たたら――高殿たたらに伴う「山内」の形成
高殿とは、炉を中心とした製鉄設備を覆う建屋のことをいいます。
高殿たたらとして大規模な施設による恒常的な操業が可能となったことに伴い、「山内」と呼ばれる技術者集団の集落が形成されました。
高殿たたらは、4本の柱(押立柱)を持ち大きいものでは10間(約18m)角にもなりました。屋内には木炭と砂鉄が山積みされ、壁寄りには各職人の座も設けられました。高殿の中央には長さ10尺(約3m)ほどの箱形炉を据え、両脇の鞴からそれぞれ20本程度の送風管を炉に入れました。また、炉の防湿・保温のために、木炭が詰まった炉床(本床)の両脇にトンネル状の空隙(小舟)をもつ「本床釣り」と呼ばれる地下構造もできました。
当時の高殿たたらは現在雲南市吉田町の「菅谷鈩」に現存している他、各文化館では再現模型などによりその特徴を見ることができます。
明治~昭和――角炉による砂鉄製錬
我が国の洋式製鉄は、安政4年(1857)の大橋一番高炉(岩手県釜石市)の完成に始まり、明治27年(1894)には洋式高炉で生産される銑鉄がたたら製鉄による生産量を上回ります。この時期、たたら製鉄においても、送風施設や鍛冶作業の動力化、角炉の開発といった生産性向上のための取り組みが行われました。
角炉とは耐火レンガを用いて高く築いた炉で、原料に砂鉄(または大鍛冶滓)、燃料に木炭を用い、従来のたたら製鉄に洋式高炉の技術を取り入れたものといえます。
伝統的たたら製鉄が大正時代に途絶した後も、角炉は特殊鋼の原料となる木炭銑を供給し続け、昭和40年(1965)まで操業されました。
たたら角炉伝承館(奥出雲町)では、櫻井家が経営していた槙原鈩に昭和10(1935)年に建設された角炉と周辺施設を修復し展示しています。
たたらの構造の変遷と伝播――時代や地域で多様な構造を持つたたら
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たたらの地下構造は、時代や地域によって多様で、また秘伝ともされています。
中世の「野だたら」から近世の「高殿たたら」にかけての変遷は、大きくは側溝状構造が小舟へ、石の敷き並べや湿気抜きの伏樋などが床釣り構造へとつながっています。
このような技術的変遷の一例を、野だたらとその後に築いた高殿たたらが並んで残っている奥出雲町の隠地製鉄遺跡(県指定史跡)に見ることができます。
また、3層に床釣りを行った近世たたらの複雑な地下構造は、出雲市の朝日たたら跡(国指定史跡)で発掘状況のまま見ることができます。