古事記・日本書紀・出雲国風土記にみるスサノオノミコト

 ヤマタノオロチ退治の神話で知られるスサノオノミコトは、最も勇猛果敢な神として不動の人気をもつ英雄神です。

  • スサノオノミコトの表記は、古事記では建速須佐之男命タケハヤスサノヲノミコト、速須佐之男命、須佐之男命、日本書記では素盞嗚尊スサノオノミコト神素盞嗚尊カムスサノオノミコト、建速素盞嗚尊等々、出雲国風土記では神須佐之袁命カムスサノオノミコト、神須佐乎命、須佐能袁命などさまざまですが、古事記、日本書記(以下、「記紀」)はスサノオノミコトを皇室祖先神・アマテラスオオミカミの弟で神速勇猛な荒ぶる神と描き、出雲国風土記は須佐すさの地に御魂を止めた穏やかで平和な須佐の長としてその姿を記し、天孫系の神との血縁関係には全く触れていません。


  • 速須佐之男命とヤマタノオロチを描いた浮世絵(楊洲ようしゅう周延ちかのぶ 画)

 ヤマタノオロチ説話は記紀に書かれているもので、不思議なことに出雲国風土記にはその片鱗すらありません。

出雲国に存在したという黄泉国よみのくに

 ここでスサノオの誕生を記紀でみてみましょう。黄泉国よみのくにに妻イザナミを訪ねたスサノオの親神であるイザナギは、あまりに変わり果てた妻の姿に驚き、逃げ帰ります。怒って追い掛けくるイザナミを防ぐため、黄泉比良坂よもつひらさか千引ちびきの岩を引きえて黄泉国との境としますが、この黄泉比良坂を古事記は「出雲国の伊賦夜いふや坂とう」と記しています。伊賦夜は現在のどこを指すのかはわかりませんが、延喜式神名帳えんぎしきじんみょうちょう下の意宇おう郡四十八座の中に「揖夜いふや神社」がみえ、風土記意宇郡の条にも「伊布夜いふや社」があります。また距離は随分離れていますが、出雲国風土記宇賀郷うかのさとの条に脳磯なづきのいそ窟戸いわとがあり、「ここを古来から黄泉之坂、黄泉之穴と言っている」とあります。これらのことから、出雲には黄泉之国の入口があると出雲人にも大和朝廷の人々にも考えられていたことがうかがえます。

  •  古来、日本には日本列島を東西軸で分け、東を日づる光の国、あるいは幾年生きる生者の世界、そして日の沈む西を暗黒の死者の世界というようにとらえる見方があります。出雲は大和から見ると西、日の沈む方角にあり、かつ風土記伝承の脳磯の黄泉之坂、黄泉之穴の言い伝えから、幽界に通じるどこか不気味でおろそかにできない国というイメージが強かったのでしょう。さらに加賀かか神崎かんざきの金の弓を暗い岩穴に射て貫通させると光り輝いたという不思議な女神の伝承、またここを通過するときは大声をあげて通らないと、船が転覆してしまうといった話も死者の世界と通じる暗闇の世界=出雲といった印象を受けます。


  • 黄泉比良坂(島根県松江市東出雲町)

記紀が描く荒ぶる神・スサノオ

 さて、黄泉の国から帰ったイザナギはみそぎ払いをし、そのときアマテラス、ツクヨミ、スサノオの三貴子が誕生し、アマテラスには高天原たかあまはらを、ツクヨミには夜を(書記の本文と一書には滄海原あおうなはら)、そしてスサノオには海原うなはら(書記の本文ではの国)を治めよと命じます。

 しかし、スサノオはイザナミの命令に従わず号泣しているばかり。その様を古事記は青山が枯れるほど、また川や海の水を泣き乾すほどすさまじく「啼きいさちる」と表現しています。アマテラスに別れの挨拶に高天原へ登って行くときも、スサノオが歩くだけで「山川ことごととよみ、国土皆りき」と古事記は記し、荒れ狂う暴風雨神と印象付けています。

 日本書記も「神性雄健かむさがたけきしからしむなり」と、スサノオを暴力的で悪しき神と表現しています。また高天原で神殿に糞尿をまき散らしたり、馬を逆剥ぎにして機織りの部屋に投げこんだり、田んぼの畔を壊したりという乱暴狼藉によってアマテラスが天岩戸あまのいわとに隠れる事態を引き起こしたことは、王権の神聖性に対する冒とくを現しているのでしょう。ゆえにスサノオは髭を切り、手足の爪をはがされて追放されなければなりませんでした。

ヤマタノオロチ退治により出現したつるぎ

 ところが一転、出雲国のかわ上、鳥髪とりかみに降りてきたスサノオはヤマタノオロチを退治し、その尾から出てきた剣をアマテラスに捧げるという話が展開します。


  • 素戔男尊すさのおのみことのヤマタノオロチ退治(月岡つきおか芳年よしとし 画)

 ヤマタノオロチが何を象徴しているのかについては諸説あり、たとえば身は一つなのに頭が八つ、尾も八つあり、身体には苔やひのきすぎが生え、長さは八つの谷と尾根にまたがるという記述からヤマタノオロチは洪水で流域を押し流して暴れる斐伊川本支流を現していて、スサノオはこの治水に力を尽くした神という説。また目は赤加賀智あかかがち(=ホオズキの意)のように真っ赤で、その腹は血にただれ、その尾から出た剣をアマテラスに献上するということから、ホオズキのように赤い目はタタラ製鉄に関わる人たちの炎を凝視する目を現し、血にただれた腹の記述は製鉄で燃え盛る炎や流れ出す鉄滓てっさいや炉のなかの溶けた鉄を現している…すなわち古代出雲の製鉄を示しているとする説もあります。

  •  ヤマタノオロチの尾から出てきた剣を古事記は都牟刈つむがり太刀たち、後の草那藝くさなぎの太刀といい、日本書記は「これいわゆる草薙剣くさなぎのつるぎなり。一書に云わく、元の名は天叢雲剣あめのむらくものつるぎ。けだし大蛇おろちおる上に常に雲あり。故以て名づくるか。日本武皇子やまとたけるのみこに至りて名を改めて草薙剣という」と記し、皇室の三種の神器の一つがアマテラスの弟・スサノオによって出雲から朝廷に捧げられたと説明しています。


  • 三種の神器(イメージ)――草薙剣・八尺瓊勾玉kakkoやさかにのまがたまtoji八咫鏡kakkoやたのかがみtoji

大和kakkoやまとtoji朝廷に必要だった出雲

 剣は国の象徴。スサノオが剣をアマテラスに捧げる行為は、すなわち出雲の大和やまとへの屈伏・服従を意味します。しかもそれが今日に到るまで皇室の三種の神器の一つなのですから、記紀を作った大和朝廷は「神秘の国・出雲を服従させた我々はこの国を治める偉大な存在である」と知らしめたかったのでしょう。

 また、光が眩しいほど輝くためには闇が深ければ深いほどいい、底知れぬ闇があってこそ煌くような光がより一層輝くという意味で、大和と出雲は補完関係にあるともいえます。出雲国はスサノオ、オオクニヌシ、イズモタケルと三度、ヤマトに屈伏しています。

 それだけに留まらず、かつて出雲国造が代替わりごとに天皇の前で祝詞のりとを捧げる、出雲国造神賀詞奏上いずものくにのみやつこかむよごとのそうじょうという儀式がありました。これは一年間精進潔斎した出雲国造いずものくにのみやつこが出雲の全ての神の霊威を身に振り付けて、天皇の長寿と回春(わかがえり)を祈るもので、違う見方をすれば天皇に対する服属儀礼でもあります。服従しつつ新たな魂の息吹を天皇に付与する……出雲にはそれを可能にする何か不思議な力があるのです。

草薙剣と出雲地方のたたら製鉄

 記紀が編纂される頃の出雲は、残念ながらまだ鉄王国といえるほどではなかったといいます。とはいえ、出雲国風土記飯石郡いいしのこおりの条、波多小川はたのおがわ飯石小川いいしのおがわの項に「まがねあり」と記述があり、古墳時代後期・6世紀後半には製鉄が始まっていたことが羽森はねもり第三遺跡(雲南市)や今佐屋山いまさややま遺跡(邑智郡邑南町)などから確認されています。
 さらに中海なかうみ周辺の遺跡から6世紀後半から7世紀にかけての製鉄炉の炉壁が発見されていることから、草薙剣は神話とはいえ、質の良い出雲の砂鉄から作られた可能性はゼロとはいえないでしょう。砂鉄の採れた波多小川も飯石小川も、スサノオが御霊を止めたと風土記が伝える須佐すさも、当時は同じ飯石郡内。想像の翼はいやが上にも広がります。

 人々が川を竜神として崇め、風水害をもたらさぬよう祈るのは古代からの常。炉から燃え上がるすさまじいばかりの炎をたたら製鉄に関わる人やオロチの目や腹にたとえて、三種の神器・草薙剣に結び付けるとは、記紀の作者は見事な語部といえるでしょう。それほどに出雲の鉄は優れていたのです。