『街道をゆく』は、昭和46年(1971)から「週刊朝日」に連載された、司馬遼太郎による紀行文集です。平成8年(1996)に著者の急逝により絶筆となるまでの全43巻にわたって、著者が国内外の街道・みちをたどって目にしたその地の歴史・文化などについて書かれています。
司馬遼太郎『街道をゆく』
「砂鉄のみち」をたどる
昭和50年(1975)1月6日から8日にかけて、司馬氏は日本に古くからある製鉄法・たたら製鉄ゆかりの地を求めて、出雲(現在の島根県東部)から吉備(現在の岡山県から広島県東部)までを旅します。たたら製鉄の原料は鉄鉱石でなく、砂鉄です。砂鉄を「ここ数年の屈託である」と司馬氏は語っています。元来日本は東アジアにおける鉄の後進国で、鉄生産が盛んになるのは平安中期です。これ以降、日本人の中に欲望と好奇心という猛々しい心が育ち、ひいては農業や商品経済の発展につながったのではないか、そう推察した司馬氏は砂鉄を通じて東アジアの本体のようなものの一端がのぞけないかと考え、今回の旅に至るのです。
「砂鉄のみち」には和鋼記念館、日立金属鳥上木炭銑工場、菅谷たたら、加茂屋のたたら遺跡、小円道のたたら遺跡などを訪ねた様子が描かれています。本稿では島根県にある和鋼記念館、日立金属鳥上木炭銑工場、菅谷たたらを中心に、司馬氏が巡った跡をたどりつつ、現在の様子をご紹介したいと思います。
最初の訪問地、和鋼記念館
「砂鉄のみち」で司馬氏はまず島根県安来市にある和鋼記念館を訪ねます。和鋼記念館は昭和18年(1933)に日立製作所安来工場付属として開館した施設で、和鋼や玉鋼に関する品を展示しています。「この記念館を見ることなしに、砂鉄のことも、かつての砂鉄を吹く方法も、またそれらに従事したひとびとの暮らしも、すでに地上から消滅したものだけに、わからなくなっている」と司馬氏は述べています。
安来平野に流れる伯太川と飯梨川の上流の山々では古来より良質の砂鉄が採れ、この砂鉄が鋼となって山から運び出され、安来港から和船に積み込まれ、全国に送られました。これにより江戸期の安来は栄え、その賑わいは安来節の歌詞、「安来千軒 名の出たところ 社日桜に十神山」に偲ぶことができると、司馬氏は語ります。鋼で栄えた土地、安来の姿は今も健在で、安来港にほど近い日立金属の安来工場所では高級特殊鋼「YSSヤスキハガネ」が作られ、自動車、エレクトロニクス、航空機などの部品として世界中に供給されています。
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和鋼記念館は現在、安来市に移管されて安来市立和鋼博物館となり、場所も移転しています。当時の姿は残っていませんが、司馬氏が「巨大な隕石のような」と形容したたたら製鉄によって作られた鉧は、和鋼博物館の庭先にも露天展示されています。また司馬氏が「目を見はらせるに足る」と語った天秤鞴や製鉄用具、たたら製鉄でできた鉄から作られた鉄製品はもちろん、当時なかった製鉄の製造工程を紹介するビデオや模型、体験用天秤鞴などの展示も加わり、より親しみやすい施設になっています。
いまもたたら製鉄を行う稲田姫生誕の地
和鋼記念館を出た司馬氏は、次に世界で最も良質な砂鉄が出るとされる横田町(現在の奥出雲町)の鳥上山(船通山)に向かいます。日本神話でスサノオノミコトに退治される八岐大蛇は鳥上山にいた古代の砂鉄業者という説を紹介しつつ、川沿いの蛇行した山道を進み、日立金属の鳥上木炭銑工場を訪ねます。当時、鳥上山の砂鉄を採取して年間360万トンの鉄を作っていたこの工場は、すでに操業を休止していますが、現在は「日本で唯一たたら製鉄を行う場所」として注目を集めています。たたら製鉄は日本刀の原料となる玉鋼を作るために不可欠な製鉄法で、日本美術刀剣保存協会が昭和52年(1977)に鳥山木炭銑工場の敷地内に「日刀保たたら」を復元しました。現在は年3回操業が行われ、見学も受け付けています。
また、鳥上木炭銑工場を訪れるにあたって、地図で「稲田」という地名を見つけた司馬氏は、八岐大蛇の生贄にされかける奇稲田姫の名を挙げていますが、実際この周辺には「稲田姫生誕の地」とされる場所があります。横田地区の中心地を走る県道15号から横田高校に向かう道を入った先に「稲田姫の産湯の池」とされる場所があり、近くには稲田姫を祀る稲田神社もあります。
「別世界」の風情漂う吉田村の菅谷山内
「砂鉄のみち」の2日目、司馬氏は江戸時代のたたら製鉄の生産施設「高殿」が日本で唯一残る吉田村(現在の雲南市吉田町)の「菅谷たたら」を目指します。吉田村に着いた司馬氏は、町の中心部にある23代田部長右衛門氏の屋敷を訪ねます。かつて「日本一の山林王」と称され、吉田村自体が「田部家の城下村」でしたが、屋敷には村を威圧するような豪壮さがなく「どちらかといえば質実な造り」と司馬氏は驚いています。この屋敷は幕末、村中を灰にした火事ののちに建てられたもので、火事の火元が田部家だったことから、ことさら簡素に造られたそうです。この田部家の屋敷は、いまも当時の姿をとどめ、裏手の高台からその全貌を見ることもできます。
田部氏に案内されて司馬氏は、「たたらの神」を祀る金屋子神社を訪れます。「田部家の金屋子神社」と呼ばれるこの神社は、「神殿、門、石鳥居がそろっていて、堂堂たる神社の体」と司馬氏が語るように、小さいながら厳粛な風情が漂っています。狭くて急な石段を昇った先には、象や虎の精緻な彫刻が施された神殿があり、「よほどすぐれた大工を、おそらく松江城下あたりから招いてつくらせた」とする司馬氏の推察にも頷けます。
金屋子神社をあとにした司馬氏は、標高500メートルほどの高さにある菅谷の山に向かい、当初の目的地である菅谷たたらを訪ねます。日本で唯一現存する高殿(たたら製鉄の作業施設)は嘉永3年(1850)に建てられたもので、菅谷たたらでは開設以来、山を閉じる大正期まで8600代(回)にわたって操業が行われました。高殿内にはたたら製鉄で使用された炉が再建され、製鉄職人たちの働く姿に思いを馳せることができます。
山内には元小屋(事務所)や米蔵、職人たちの住居なども残っていて、江戸時代、たたら製鉄に従事した彼らの息づかいさえ伝わってくるようです。この菅谷山内には、建築家の岡本太郎氏も訪れたことがあり、その風景をことのほか気に入ったようです。菅谷高殿・山内生活伝承館の朝日光男施設長が当時の案内人から聞いた話によると、道中ずっと不機嫌だった岡本氏は山内が見渡せる高台に来ると、とたんに機嫌がよくなり、高殿内ではたたら製鉄の説明を目を輝かせながら聞いたそうです。岡本氏はその後、昭和57年(1982)に島根県で行われたくにびき国体のために「神話」というモニュメントを製作しますが、たたら製鉄の炎がモチーフになったとも言われています。
この山内を司馬氏は「別世界」と評しました。菅谷の山を降り、掛谷の町の橋まで戻ってきたとき、「なにやらほっとして下界に戻ったような気がした」とも述べています。周囲の町並みと一線を画す山内の景観は、司馬氏訪問時から40年以上経った現在も、我々を「別世界」へと誘ってくれます。
<参考文献>
司馬遼太郎『街道をゆく7 甲賀と伊賀のみち、砂鉄のみちほか』(朝日文庫)